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今日は母と築地の半額市へ行ってきました。
あいにくのお天気で少し寒かったけれどやっぱりあの場所は歩いているだけでとても楽しい。
移転なんてとんでもない話です。
今朝はまず蔵やというところで海鮮丼を食べました。
母は1400円の春海丼・・(☆サーモン、まぐろ、いか、こはだ、平目)
そして私は1700円のいろどり丼・・(☆たっぷりのねぎとろ、いくら、そしてうに!)
という贅沢な丼。
風邪で喉と胃が弱っていたので、ねぎとろやうにのまろやかさがとてもおいしかったです。
初めて築地デビューしたときに食べた別のお店の三色丼は、
ネタが小さくてとてもがっかりしましたが、今日のはそれぞれ満足のボリュームでした!
その蔵やから2軒ほど隣に、「すし」とちょうちんで書かれたお店があり、
こちらは私たちが店をでてもう一回りした頃には、かなり行列になっていました。
こちらは築地市場駅でもでっかく紹介されている海鮮ひつまぶしが食べられるお店なんです!
次回はここに行ってみようと思っています。
むふふ。
さてさて、おなかもいっぱいになった私たちは、
この間割れてしまった急須の2代目を買おうと物色。
その途中、途中でさまざまなうまいもんに遭遇しました。
まず一番最初に山形山芋そばと金ごまを買いました。
それから玉子焼き屋をじっとみていると、「たまご屋さんのたまごプリン」なるものが!
一度は通りすぎたのですが、やっぱり風邪で弱っている私に栄養をつけさせたい、
といって母が1ケ買ってくれました。250円でした。
夕張メロンのような淡いオレンジ色をしていて、とてもなめらかな口あたりでした。
それからその途中の道にあったでっかいどら焼が目に入り、あん好きの母が
私の顔をおんなじ大きさのを2個もとったので、1個にしておきなよ、とたしなめておきました。
その店と同じ通りに私の大好きなスナック菓子の専門店があり、ここでは好物の
おくらまるごとスナックを買っていきました。
さくさくなのに、あのネバネバ食感はちゃんと残っていてクセになるお味です!
そして次のお店で母が見つけるや否や手にとったのが
「国産甘梅酒梅」というものでした。これは梅酒につけこんだ青い梅のおつまみで、
つけた梅酒ごとパックされているものでした。
みたところとてもジューシーで梅が好きな人には良さそうな一品でした。
私はすっぱいものはちょっと苦手ですが、時々ちょっと高めな居酒屋に行くと出てくる
紀州の南紅梅が大好きです。これは甘味があってほんのりとした酸味とやわらかい果肉で
日本酒好きにはたまりません。
さて、その甘梅酒梅のお店「広洋」で母が買い物をしている間、目に入ったのが
エリンギの青唐辛子炒め・・こ、これはビールに合いそうだ!たくさん入って一袋900円!!
たまらんぞ、たまらんぞ☆でも、のっけから飛ばしすぎているような気がしたのと、
二人にはちょっと量が多かったので辞めてしまいました。
でも次は絶対買おう!ぐふっ♪
練り物やさんの角を曲がって細い路地に入ると、
せいろに入った中華まんがほのかな香りをただよわせて、食欲をそそりました。
1ケ80円のちっちゃな中華まんの8ケ入りを買って足を進めると、
数の子に、甘たらこ、すじのこ、大トロ・・と、思わずぺろりと舌をだしたくなるような
新鮮な海の幸のお店が軒を連ね、目移りしておりました。
母は「丸善水産」の干物が気になっていたようで、しばらく見ていると、
脇から大きなめがねをかけた
おじいちゃんが「お姉さん、干物もっていきな!うまいよ~」と声をかけてくれたので、
勢いがついて母もかさごとほっけを手にとっておじいちゃんに渡しました。
レンズの奥の目が大きく見えて、とってもかわいらしいおじいちゃんでした。
書物が豊富な丸善もあれば、
海産物が豊富な丸善もあるのだなぁ…と思いながらお店をあとにしました。
さてさて、こうして久しぶりに母とわくわくしながらお買い物を済ませると、
以前アメリカの友人が来日したときにいった「うりきり屋」という瀬戸物やさんが見えてきました。
ここはたくさんの食器があり、彼らも長い時間とても楽しんでいるようだったので、
何かいいものがあるかもしれないと思い、傘を畳み、店の中へと進みました。
私の好きな緑色の、深蒸し用の急須があったので、これを買うことにしました。
別の女性客が手にとった湯のみ茶碗には、
ちいさな人形がうに~っと湯飲みの壁にへばりついたかっこうをしている
とてもチャーミングなもので、この間一緒に来たEmilyという友達が、
とても気に入っていたものでした。
そんな彼らのことを思い出しながら、とても幸せな気持ちで店をあとにしました。
その先には郵便局がありました。彼女が日本を離れてから1週間ぐらいして
送ってくれたカードにとても素敵な写真と、うれしいメッセージが書かれていたので
私もそのお返しにと、まず写真をプリントアウトするためにプリンターを買い
以前にうちの店でEmilyが喜びそうなものを選んで買っておいた
桜にかこまれて着物をきた女の子の紙人形のメッセージカードと
たくさんの思い出写真をそえて、カンザス宛てに送りました。
それからバスに乗りました。
バスの後部座席に母と二人で並んで座るなんて子供の時以来のような気がして
とても楽しかったです。
いい一日でした。
エアメール、早く届くといいな…
私の住む近くの公園はちょうど隅田川沿いにあり、毎年春になるととても美しい幻想的な場所になるのです。
特に坂をのぼる途中に見えてくる桜のアーチがとても気に入っていて、
一度は大切な人を連れてきたい居場所でもあります。
毎年、我が家はお弁当をもって桜をみにいくのが春の楽しみになっています。
時間があるときは作るのですが、今週はお互いに忙しいので近くでお惣菜をいくつか選んで、
それから偶然みつけた「わらび餅」も手にとって、風流に和の心を味わうことにしました。
去年の春は手にした日本酒に、はらはらと桜の花びらが舞い落ちてきて、
とても美しかったです。私が生まれた頃にはもう天国にいってしまった
祖父もそれを「桜酒」と呼んで、楽しんでいたそうです。
ピクニックが大好きだった父もきっと喜んでいるだろうと思いました。
母は毎年必ず卵焼きをつくってくれていたので、
今年もないと落ち着かなかったようで、「どうしても…」といって買ってきました。
でも卵焼きだけはやっぱり、よその人が作ったのよりも、母が作ったものを食べたいと思ってしまいます。
甘すぎず辛すぎず、本当にちょうどいい味なのです。
砂糖やみりんのかわりに日本酒を使うのが我が家流です。
いつかこの味も受け継がなければならないと思いました。
日本人はやっぱり桜が好きだと思いますが、なかでも私にとって桜は特別な花です。
専門学校にいたとき中国語を専攻していた私は
2年になったとき入学式で科の代表としてスピーチをやることになったのでした。
その学校は我が家にとってはとても学費が高く、入るのだけでも本当はやっとでした。
でも、高校も私立だったのでずっと働きづめの親に、これ以上負担はかけたくないと、
自らも放課後、電車に飛び乗って駅から駅までの数分間に仮眠をとりながら、
身を削る思いで通ったのでした。勤めた先はお台場のフジテレビのすぐ横にあるホテルで
ルームサービスのオーダーを電話で受け、ウェイターとキッチンにその指示を出すという
仕事でした。聞き慣れないアラブ系の外国人客の話す特徴的な英語でだされる注文も、
的確に聞き分けて判断したり、クウェートの副大統領が
宗教上食べられないものを抜くようにキッチンに話を通したり、
18歳にして初めて大きな会社で責任のある仕事についたので、
とても緊張していて、
失敗の連続で精神的にも体力的にもきつい毎日でした。
帰宅すると夜中の12時近くなって、それからご飯を食べて3時頃寝て、
早朝にはおなじ学校のビジネスマン向けの教室の受付窓口のバイトをやったりして
一週間七日、ほぼ休みなく働き続けた学生生活でした。
そこでの挫折と苦悩と挑戦が
その後の自分の内面を大きく変えてくれました。
仕事や語学力以上に、人の痛みがわかるようになったことが
最大の収穫だったように思います。
不慣れながらも一生懸命、夏休みもあまり遊ばずひたすら汗を流して
ようやく一年が過ぎ、訪れた春の休日にその公園を歩きながら
ふっと見上げたとき、桜が笑ってくれているようにみえたのです。
私はその桜をみてとても幸せな気持ちになりました。
その桜はまるで
「一年間よくがんばったね。これからもその気持ちを忘れず、
一つ一つの出会いに感謝して、より一層多くのことに挑戦していくんだよ」
と、私に語りかけてくれているようでした。
これから希望をもってそれぞれの学びをスタートする新入生たちにも
そんな出来事をありのまま伝えたかったのです。
そして今年。
その当時からずっと6年ほど文通していたアメリカ人大学生が、
ついに憧れの日本へやってきました。
私は一週間、ほとんど毎日彼とその友達と時間を共にし、
初めてみるたくさんの「日本」に感動したり、
笑ったり、驚いたりする彼らの表情や声を間近にし、
学生時代一緒に過ごした留学生の
たくさんの「?」が「!」に変わる瞬間の笑顔にふれることができた喜びをきっかけに
日本語教師を目指し始めた当時のことを思い出しました。
今回初めての本格的な英語での東京案内で、
自分にはまだまだ知りたいことがとてもたくさんあると感じましたし、
英語の上達に向けて今まで以上に真剣に取り組もうと心に決めました。
その彼についてはのちほどくわしく書くつもりですが、
私の人生にとって欠かせない存在であると気づきました。
一緒に来たシアトルの友達もみんな桜をみたがっていました。
ほんのタッチの差でその思いは叶えられませんでしたが、いつかまた必ず
今度はもっといろんな引き出しをもった自分になって
また彼らに桜をみせてあげることができたらいいなという願いが
桜の開花とともに決意に変わりました。
25歳の春みたこの桜が、これまでの中で最も意味深く
なんともいえない感謝の気持ちが心の底からわいてくるものでした。
本日2007年1月31日をもって、私がお世話になった支店が、
その短い歴史に幕を閉じました。
今日は本店の業務が早番で終わりだったので、すぐに着替えて、
制服をもって支店へいき、そしてまた制服に着替えて最後のカウンター業務を、オープニングの仲間たちと一緒にやりました。
お得意さんだった人たちも、みな口々に「残念だね、寂しくなるね・・」とお声をかけていってくださいました。
以前、私が本館のビルのエスカレーターで
「あの雑誌の付録のワインがまだ残ってますよ」とご案内したのがきっかけで、よくおつきあいさせていただいた女性の方にも久々にお目にかかり、最後にごあいさつすることができて、とてもうれしかったです。
そして、お客様のいなくなった3Fから順番に電気が消え、
最後に帰られたお客様は笑顔の素敵な背の高いご年配の男性でした。
その人が店を出る間際にもう一度、その背中に向かって
「ありがとうございましたー!」と、みんなで頭を下げました。
こうして、とうとうこのお店の扉が閉まりました。
あまりにも早く、あっけない最後でした。
オープン当時の店長であり、今の本店1Fのフロア長であるKさんも
仕事を大急ぎでこなし、スーツ姿でかけつけ、最後までずっとにこやかにこの店と、みんなのことを見守ってくださいました。
最後の晩餐は、ビルの1F~3Fまでを貸してくださったある通信社の
ご厚意で、併設されているレストランから豪華オードブルを手配していただき、店の1Fにテーブルを並べてうちのスタッフと取次店と、その通信社の方々を合わせて16名で行いました。
その会社は偶然、私の地元の町に新しい施設をつくっているようで、
視察の帰りに寄った名物店の焼豚も差し入れに、もってきてくださいました。
それからおいしいスパークリングワインや麦焼酎などをいただき、
ひとしきり盛り上がったあと、通信社の代表の方がこの店のスタートからのことを話し始め、
皆一斉に視線を注ぎ、耳を傾け始めました。
どのようなコンセプトのもとに、どのような人たちの思いでこの店が開いたのか、そしてこれまで、その通信社の方が、河上さんやうちの上層部とどのようにして、この店を盛り上げようとしてくれたか、私たちが今まで知らなかった様々なエピソードを聞かせてくださり、最後に
「この店は今日でなくなってしまいますが、みなさんはこの店が、
そんな夢のもとに開かれた店であったということを、
どうか忘れないでください」
と、温かい口調で語りかけてくださいました。
次に、この店を立ち上げ、本の事を何も知らない私達を0から育てあげてくださったKさんが、
「まず感じることは、非常に寂しい・・ただただ寂しいという思いです。
せめてあともう一年がんばれれば・・と、本当に今でも思っています。
けれどここでみなさんと手探りでやりとりしてきたことは、
僕は一生忘れませんし、これまで培ってきたことは
これから本店で生かせるよう努力してまいります。
みなさん3年半、本当にお世話になりました。
ありがとうございました。」
という言葉で締めくくりました。
そのお二方の言葉にぐっときました。
でも、ここで泣いてしまうのはなんだか違うなという気がして、
拍手をしながらずっとこらえていました。
そんなことを、帰宅した今こうして思い返していたら携帯がなり、
スピッツの「Y」という曲が流れてきました。
”悲しいこともある だけど夢はつづく
目を伏せないで 舞い降りる夜明けまで・・”
これから会社はどんな風になっていくのかわかりませんが、
私は私に与えられた使命を精一杯こなしながら、
これからも諦めずに心を込めていい店を作っていこうと思いました。
奇しくも「Y」はこの店の頭文字でもあります。
小さくて、めだたない場所にあったけれど、たくさんの人に愛されて、
そして私の21歳から24歳までの大切な人生の時間がつまったお店でした。
今まで足を運んでくださったみなさん、本当にありがとうございました。
これまで私達の知らないところで、この店の屋台骨を支えてくださった方々、本当にお世話になりました。
私はこの店に出会えて本当に幸せでした。
今日はあの巨匠、シドニー・シェルダンがこの世を去りました。
今日帰る前に土台をつくってきましたが、あしたは朝一で出社して、
またお客さんが思わず足を止めてみたくなるような棚をつくってきます。
では、みなさん、おやすみなさい。
今日は明日で閉店を迎える支店のみんなへの差し入れを買うため、銀座へいきました。
デパートの地下には色とりどりのお菓子が並んでいて、その店舗の一つは
ホテルアルバイト時代に一緒に働いていた女の子が一度勤めたことのあるメーカーでした。
そこのお菓子もおいしいのですが、彩りがややさみしかったので、
向かい側にあった焼き菓子の店で詰め合わせを買って包装してもらいました。私を受けてくれたのは若い女の店員さんでしたが、横にいた先輩の男性店員さんのラッピング手さばきの素早いこと!さすがベテランだなと思いました。私もクリスマスは年々あんな風に手早くできるようになっていきたいなと思いました。
迷いに迷いましたが、ようやく決まってほっとして母がよそから来るのを待ちながらぶらぶらとフロアの中を歩いていると、
ある場所で目がぱちくりとなって、思わず足がとまりました。
生ハムの切り売りです。とはいえこれ、ただの生ハムではないんです!!
以前、アド街で森久美子が宣伝していた高級イベリコ豚の中でも更に
最上級といわれる「イベリコ ベジョータ」と目が合ってしまったのです!!!!
のびのびとしたストレスの少ない環境で育ち、どんぐりを食べて育った
その豚はスペインでも2%しかとれない貴重な豚なのだそうです。
年末にテレビでそのことを知って、いつか食べたい・・と思っていたら、
こんなにも早くお目にかかることができたので、興奮をおさえきれず、
目を輝かせながら、じーーーっとガラス越しに立って眺めていました。
店員のお兄さんは、今まさに目の前でその豚肉を切り分けていました。
その作業をしながらも、ガラス越しに私が立っていることをことを気にかけてくれて、一段落すると手をとめて、「いらっしゃいませ」と声をかけてくれました。色が白くて、とても優しいお顔立ちのそのお兄さんは、
私が興奮さめやらぬ調子でベジョータのことを知ったいきさつを伝えると
「そうなんですよ~、そうなんですよ~」と、照れくさそうに笑いながら、一生けんめいその豚のことを説明してくれました。
ここで会ったも、何かの縁!とばかりに、私は一つ試食をしてから、
100g およそ¥3,900のベジョータを試しに、30gほど量り売りをしていただくことにしました。ほんとは50gほしかったんだけど、小心者なので30gにしてしまいました。
キャー!ドキドキ。あのベジョータが、あのベジョータが、
ついに我が家にくる~~~!!!!
何も知らない母は途中からやってきて、あまりの値段に表情がカタくなっていましたが、「ここが私が。」とすかさず母の手を止めて、お財布を
開きました。もうまもなく誕生月に入るので、ちょっと大胆になっていました。・・というか、おいしいものには本当に目がないんです☆
せっかく素敵な店員さんにもお目にかかれたのに、ここで素通りするわけにはいかないじゃぁないですかっ!
ということで、優しい店員さんはうすくきれいに並べて、紙に包み
「これで31gです。」と言い、それから手さげにいれてもたせてくれました。変なお客がきたというのに、いたってやわらかい物腰のそのお兄さんには本当に出会えてよかったと思いました。
それから隣にあったオリーブオイル「レモン」の味も確かめつつ、いざ新橋へ。めざすはキムラヤ。ついにデジカメをGETです。
買ったのはCanonの900IS。ある先輩がCanonで働いていることもあり、なんとなく”Canonびいき”になっていて、色々と見比べた結果、この最新の機種が総合的な機能のバランスに一番優れていたのでこれにしました。
望遠、広角、操作性、デザインすべてにおいてしっくりときたので、
これでついに買うことができました。これで明日の最後の晩餐もバッチリ☆
うきうき気分で母と支店の方に向かい、最終日前日を迎えたスタッフたちにお菓子を渡してきました。2Fでは文具が半額セールを行っていたので、動物のフォトグラフィーが表紙になったノートを2冊と、仕事で使うグリーンのクリアファイルを2枚。それからきれいな緑色の万年筆を1本買いました。
3年間お世話になりっぱなしだった男性の先輩がきれいにラッピングしてくれました。
最後だからといっぱい、メモ帳やらなんやら、「いったいそんなにどうするの?!」というぐらいたくさんのステーショナリーをかごに入れてもってきた母にも丁寧に応対してくれました。
でも、途中で打ち間違えて「すいません、もっかい最初から打ち直してもいいですか?」と、言っていたのが、先輩らしくて笑いを誘いました。
さてさて、そんなこんなでこの場所での最後のお買い物を済ませ、
近くのコンビニでこの店にしかないおいしいチーズも買って、
帰宅の途につきました。手には新しいデジカメとイベリコベジョータ!
包みをあけると木の実の芳醇な薫りが広がり、さすがどんぐりを食べて
育っただけのことはあるなと感心しました。
グラスにはボジョレーを注ぎ、いざ一キレ口に運ぶと・・・・・・・
たとえようのない香ばしさが口の中でふわぁっと開いて、夢心地。
噛むごとにそれは深く、複雑な風味をおりなし、こんなに幸せでいいんだろうかと、思わず疑いたくなってしまうほど贅沢な味わいに、なにも云えないまま何度もゆっくり目をまんまるくしながら、ただただ母の顔を見つづけることしかできませんでした。
「そんなにおいしいかい。ふふっ。よかったね」
と、母も笑い返してくれました。
「母さんはあと1つでいいよ」と、私に残りをすべて与えてくれました。
それから、ふっと心の奥で
「沙里はよくこんなの知ってたなぁ・・」
父さんの声がしました。
きっと、今この場所にいたらそう言ったに違いないと思いました。
きょうはめずらしく母が休みで、お昼一緒に
NHKの「日本の話芸」をみました。鳥の声のような笛の音と
木久蔵が描いた絵で番組が始まり
柳屋小三治 うどんや
と白い墨文字で書かれ一気に期待が高まりました。
昔、江戸の町をゆくそば屋は
自分が呼びとめられる時の声は小さいほうが
儲かると思っていたそうです。
通りには夜になると中で博打をしている者がいて
自分たちの悪行がばれないようにこっそりと
声をかけ、仲間の分まで頼むからだそうです。
そして江戸の男たちには太くてもっちりしたうどんよりも
細くて手早く食べられるそばの方が粋で好まれていたそうです。
そんな前置きで始まった今日の小噺。
ある冬の寒い夜に通りでうどんやが桶とやかんをひっかけている姿を
みかけた酔っ払いの男が
「こいつぁいい、ちょっとあったまらしてくれ」と、
墨で暖をとるため、うどんやを呼び止めるのでした。
手をこすり合わせ、酔っ払って理屈ばかりいっては
うどんやにからむそのおやじの芝居が非常にうまく、
「あー、こういうおじさんいるなぁ、お客さんにも…」
と思いながら、ニヤニヤして聴いていました。
それからかわいがっていた近所の娘が嫁いだという話を
上機嫌で話していると
「おじさん。さて、このたびは・・・」
と、最後のあいさつをされたのを思い出し
しゅんとして急に静かになってしまう演技は
お酒好きで寂しがり屋の父を一瞬思い起こさせるほどリアルで
その間のとり方の妙に、心がきゅんとなりました。
結局その男は、ただあったまってからんで、うどんは嫌いだと食べて行かず、
おまけに捨てゼリフまで吐いて去っていったので、
「冗談じゃねぇや、あんなろくでもねぇ奴の相手してたら商売にならねぇや」
と、呆れながら歩いていると、今度は別の男が、
「うどんやさ~ん。 おぉい、うどんやー」
と、今にもかすれそうな声でよびかけてきました。
「お…!きたな。これだから商売は怠けじゃいけないな」
と、張り切って、その男に合わせるように小さな声で
「へい、何杯こしらえましょう!」
「一杯」
「…え?」
「一杯」
「一杯・・だけですか。…承知いたしやした」
と、がっかりしながらも、黙々と懸命にこしらえ始めました。
「へいお待ち」
と、差し出し、くわえた扇子をちょっと開くことで
箸を割るようにみせていました。
それからどんぶりを抱え込んで
「ふぅ…ふぅ… ずず~ あぁ・・」
と、芯からあったまっているようでした。
具の方に箸をつけてぱくっぱくっと素早く口に運ぶさまや
途中で「ずっ」と鼻をすすったり、
最後に切れ切れになった麺を集めて食べるさまなど
本当に芸がこまかくて、思わず画面の前で
「おいしそう・・・」
と、つぶやいてしまうほどでした。
「お代はいかほど?」というと、
客の男はたもとからあるものを取り出しました。
さしだされたそれをみて、「えぇ?」と顔をあげると
「うどんやさんも風邪ひいたんですか?」
といったところで、小噺がおわり小三治師匠が頭を下げました。
私はテレビのなかのお客さんと一緒に拍手をしました。
名人の江戸落語は素晴らしい!と、感激しました。
特に酔っ払いの演技は本当にもう一度みたくなるほど
心に残りました。
そのあとネットで小三治のプロフィールを拝見しました。
40代まではバイクが趣味だったそうで、
「ニューヨーク一人歩き」などのエッセイ風落語という
この小三治師匠ならではの芸もあるそうです。
趣味の欄には"ドキュメンタリーものの録画"とあり、なるほどな。と思いました。
それ以外では「ハチミツ、蜂、世界の塩、その他いろいろいろいろいろいろ」と書かれていました。
著書もいくつかでているようなので明日店で探してみようと
思います。自分の職場で欲しいものをすぐに見つけられるなんて素晴らしい☆
春にまた落語会を開くようなので、次はぜひ足を運ぼうと心に決めたのでした。
06 | 2025/07 | 08 |
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27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
母に抱かれながら
生まれた喜びを
懸命に伝えようとする声
我が家で大切に
保管されている
カセットテープには
そんな私の
「言葉」と「人」への
純粋な思いが
残されています
交換留学先の
オーストラリア
高校演劇の稽古場と
体育館の舞台
留学生たちと語り合った
外語学院のカフェテリア
母国語とは何かを
教えてくれた
日本語教師養成学校
身を削りながら
学費を稼ぎ出した
グランドホテル
20代を語る
全ての背景となった
駅前の洋書売場
大好きな隅田川の
ずっと先にあった
浅草のゲストハウス
そして
旅人達のターミナル・・
気がつくと
その学び舎で得た事は
すべて
外国の方々の笑顔に
繋がっていました
日本語を学びたいと
心から願う人たちの為に
どんな形でも
教える場を設け
共に学んで行く事が
私の夢です